関わりたくなるコミュニティとは

~緩いつながりは、心地よいサードプレイスの住人となりえるのか~

2025年03月28日 / 『CRI』2025年4月号掲載

CRI REPORT

目次
  1. ●背景 ─なぜ今、つながりなのか?─
  2. ●「つながり」を公的データからみる
  3. ●「つながり」の強さとは
  4. ●「強固なつながり」と「緩いつながり」の違い
  5. ●それぞれの違いと長所・短所
  6. 〈Column〉弱い紐帯の強さ ~The strength of weak ties~
  7. 〈Interview〉共同研究での活動が示す自律協生のヒント
  8. ●共同意思決定とビジョンは必要か
  9. ●やる気の問題ではない
  10. ●コミュニティはずっと続かないといけないのか
  11. ●協働する理由がない
  12. ●若い世代は気づき始めている
  13. 〈まとめ〉
  14. ●孤独と緩いつながりの重要性
  15. ●現状のコミュニティスペースと課題
  16. ●関わりたくなるコミュニティとサードプレイス

コロナ禍を経て、私たちはライフスタイルに対する考え方や仕事への関わり方、人とのつながり方を見つめ直す機会を得て、そのつながり方が変化してきたのではないだろうか。
また、デジタル技術の進化により、場所を気にすることなく誰とでもつながれるバーチャルな環境も生まれたが、そこは本当に関わりたいと思えるコミュニティや場所なのであろうか。
本稿では、緩いつながりに注目し『関わりたくなるコミュニティ』について考察する。

* サードプレイス:この概念は、1989年アメリカの社会学者レイ・オルデンバーグによって提唱された。家・家庭(ファーストプレイス)や職場(セカンドプレイス)ではない、第三の居場所を指す。具体的な場所としてはカフェや公園等が例として挙げられることが多いが、オルデンバーグは、誰でもが気軽に訪れることができる中立的な場で、社会的地位や職業に関係なく、頻繁に訪れることが可能であり、人々が自由に会話を楽しむことができる居心地のよい、コミュニティの一部として機能するものとしている。

●背景 ─なぜ今、つながりなのか?─

本稿で人々の関係性や「つながり」について取り上げる背景には、コミュニティ形成の仕方が変化してきていると感じる場面が増加したからである。
2020年以降コロナ禍を経て、私たちは働き方を含むライフスタイルに対する考え方やデジタル技術の進化により、急速に人との関わり方やつながり方に変化が生じたのではないだろうか。これまで対面でなければならないと信じてきたことが、コロナ禍により必要に迫られて、オンラインで執り行ってもさほど問題ではなかったといったものもあれば、対面で行うことの重要性を感じたものもあるだろう。その手段のどちらが優れているといった二項対立ではなく、そのコミュニティの目的や環境、状況に応じて向き・不向きがあると思われる。
このように、人とのつながり方が多様化する中で、コミュニティのあり方は変革期の中にある。
また、本稿で使用する「コミュニティ」という言葉は、主に学校や企業等の組織から派生した人びとの集まりではなく、定義は難しいが、人びとの私的な意思によって集まったものを指している。
現在の私たちが置かれている少子高齢化が進む人口減少社会の中で、コミュニティといったカテゴリーにおいても、これまでのやり方だけでは立ち行かなくなってきている。少しでも自分の生活に関心を持ち、それらに関わる周辺出来事に関わりを持とうと思うにはどうすればよいのだろうか。関わりたくなるコミュニティとはどういったものなのか。取材で得た情報や考え方等も交えながら考察したいと思う。

●「つながり」を公的データからみる

内閣府 孤独・孤立の実態把握に関する全国調査(*2)によると、2021年から2023年にかけて孤独感を感じている人は、4割前後で推移しており、大きな変化はみられない。2021年は新型コロナウイルスが猛威を振るっていた時期であり、2023年はほぼ収束した時期である。一般的にコロナ禍では、人びとの孤独や孤立が増加すると考えられていたが、このデータからはほとんど読み取れない(図表1)

*2 内閣府 孤独・孤立の実態把握に関する研究会「人々のつながりに関する基礎調査―令和3年、4年、5年―調査結果に関する有識者による考察」(令和6年10月)

また、年齢階層別で孤独感を確認すると、高齢者よりも若年層から中年層にかけて孤独感を感じている人の割合が多い。
図表2は、孤独感が「しばしばある・常にある」と回答した人を年齢別に割合で確認した結果である。特に16ー19歳では、2021年と2023年を比較すると、孤独感を感じている人は約1.7倍に増加している。一方で、20ー29歳、30ー39歳の比較的若い世代では、孤独感を感じている比率はどの年齢層よりも高いが、2023年は2021年と比較すると減少している(図表2)

一般的に孤独や孤立と聞くと、高齢者の割合が高いと思い浮かべがちであるが、データを確認するとそれほどでもない。
孤独や孤立といった問題は、うつ病、児童虐待等が増加する要因の一つともいわれている。
また、別の調査報告書である内閣府 満足度・生活の質に関する調査報告書2024~我が国のWell-beingの動向~(*3)でも、65歳以上の高齢者より、39歳以下の若い世代の方が社会とのつながりを重視していることが見てとれる(図表3)

*3 内閣府「満足度・生活の質に関する調査報告書2024~我が国のWell-beingの動向~」(令和6年8月)

●「つながり」の強さとは

本稿では、リーダーや核となる人物等を中心に統制がとられた人びとのつながりのことを「強固なつながり」と表記し、リーダーや核となる人物が見えづらい、もしくはいない自律分散したオープンな人びとのつながりのことを「緩いつながり」と表記する。
まずは、それぞれの特徴を見比べ、なぜ「緩いつながり」に注目をしているのか、一方でその問題点はどういったところにあるのか。実例取材として〈Interview〉の項で、さまざまな地域に入り、現地の人と共に活動している人の実体験を紹介する。

●「強固なつながり」と「緩いつながり」の違い

強固なつながりの前提としては、そこに関わっている人びとは共同体的な一体意識を持っており、その集団内部において同質的な結びつきがあるものを指している。例えば、昔でいえば、農村部にある村で、水田を耕すために皆で協力して農作業を行っていたり、冠婚葬祭に村人が駆り出されたりしている結束力の強いコミュニティである。現代であれば、自治会や町内会、学校のPTA等がイメージに近いと思われる。比較的ピラミッド型の組織になっており、統制がとりやすい。また、同質性が高く、集団としての結束力が求められる(図表4)
一方で、緩いつながりとは、基本的に個人をベースとした異なる集団間の異質な人びとの結びつきである場合が少なくない。
参加の意思決定は、個人に委ねられており、縛りがあまり強く働かない。つまり、同調圧力が起こりにくい。そのため、柔軟性があり、流動的になりやすい。場所に囚われることもそれほど多くはなく、地域性が薄く、広範囲な情報共有やリソースの活用が可能となる。また、共通の興味や同じような状況・経験を持った人びとが集まっている場合も多く、共感が得られやすいという点もある(図表4)

●それぞれの違いと長所・短所

強固なつながりでは、個人の意思に関わらず共同体としての行動が強いられる部分がある。その強い結束力があるため、緊急時の対応が可能といった長所はあるが、そこに関わっている個人の負荷は高い。また、一部の人に閉じられたコミュニティであることも少なくなく、そのため、そのコミュニティ以外の人は参加しづらいといった点や一度関わってしまうと抜けることができないのではないかといった心理的な面から、新しい人や情報の流動性が低くなる傾向にある。
一方で、緩いつながりでは、個人で参加していることもあり、同調圧力やしがらみが起こりにくく、多様な人の出入りが生まれる点は長所である。しかし、強い統制力を持って人びとが集まっているわけではないため、集まることの目的が達成されれば、自然と消滅する場合もある。集まる目的がなくなると、コミュニティが持続しづらいという点もある。また、コミュニティ内でのルールや決め事など、話し合いや参加者合意に取られる時間は長期化する傾向にあり、必ずしもうまくいっていることばかりではないが、ルールを固定化せず、柔軟に運用しているところもある。地域や組織を越えて個人が興味や情熱を持って広がりを見せるネットワークは、コミュニティに参加するハードルを下げているのではないか。
緩くつながった個人が、他のコミュニティとのハブの役割を果たし、個人を介して、他の情報や価値観がコミュニティ内に流入し、それらの融合が可能になるだろう。

〈Column〉弱い紐帯の強さ ~The strength of weak ties~

1973年にスタンフォード大学の社会学者マーク・グラノベッターによって提唱された理論である。この理論が提唱された1970年代のアメリカの時代背景としては、就職に関する情報は、現在のようにインターネットの就職・転職サイトやエージェントが存在したわけではないため、人づて・口コミが重要であった。グラノベッターの理論は、そのような環境下で、有益な就労情報を得るためには、強い紐帯:強い社会的つながり(親族、友人等いつも会う人)よりも、弱い紐帯:弱い社会的つながり(普段会わない人)から得た情報の方が役立つ情報であると示した。論文の中では、思考や価値観等が似通った強い紐帯では、自分と同質の情報しか得られず、弱い紐帯でつながった関係性の間では、新しい情報や異なるアイディアをもたらすという結果の内容である。
また、この弱い紐帯が、異なるコミュニティ同士のネットワークの結節点となり、そのコミュニティ間の橋渡しの役割も果たすことになる。グラノベッターが、この紐帯の強さ(人びとの関係性)やネットワークの構造に着目したことにより、後の時代の経営組織論や組織関係論等の実証研究につながっていったともいわれている。

〈Interview〉共同研究での活動が示す自律協生のヒント

株式会社日本総合研究所(以下、日本総研) 創発戦略センター チーフスペシャリスト井上岳一氏(以下、敬称略)に、武蔵野美術大学(以下、ムサビ)との共同研究のテーマ「自律協生社会の実現」について、地方での活動を交えたお話をお伺いします。

井上 岳一 氏
株式会社日本総合研究所 
創発戦略センター チーフスペシャリスト
林野庁、Cassina IXCを経て、2003年から日本総合研究所勤務。著書に『日本列島回復論』(新潮選書)、共著書に『MaaS』『Beyond MaaS』(共に日経BP)等。武蔵野美術大学客員研究員。内閣府規制改革推進会議専門委員。

●共同意思決定とビジョンは必要か

豊田:ムサビと日本総研が共同研究拠点「自律協生スタジオ」を持たれた経緯をお教えください。

井上:日本総研は、知識や思考、論理などの左脳を武器にしてきたわけですが、本当に社会を変えたかったら、感性や創造性など、もっと右脳的な部分が必要になる。そのためにはどこから手をつけるべきかと社内で検討を始めていたときに、ムサビ側から「何か一緒にできないか」とお声がけを頂いたのです。そこから両者で対話を重ね、「自律協生社会」を目指そうというコンセプトに辿り着き、2022年11月に「自律協生スタジオ」を開設しました。「手を動かせる」という美大の強みを最大限に生かすには、単なる研究でなく、実践や創造の場にならなければいけないという思いから、「スタジオ」としました。

豊田:コンヴィヴィアリティ(Conviviality)を「自律」と「協生」から成る「自律協生」という言葉に訳したとのことですが、ここまでの研究・実践の中で、自律のために大切なことは何だとお考えですか。

井上:大事なのは、「共同意思決定」だと思います。
 決める側と決められる側が、主体と客体が分離せずに共に決めていくことが重要で、「決める」という行為に参加したときに「自律」が生まれるのだと考えています。
 でも、今の社会で、個人や市民が「選ぶ」や「決める」という行為に参加できているかというと、そんなことはない。例えばまちづくりなどでは、市民参加が叫ばれますが、ほとんどの場合、形だけのものになりがちですし、最初の段階でワークショップなどをして市民の声を集めても、実際に計画に落とし込む段階からは、プロの世界になってしまいます。アカウンタビリティ(説明責任)を果たすためだけの市民参加が大半というのが実態ではないでしょうか。

豊田:そのような状態で、個人や市民が「自分たちも参加している」と思えるはずがないですよね。

井上:ただ、どうすればよいかというのは難しい問題ですよね。顔と名前が一致する集団の上限は150人程度と言われますが、そのくらいの小さな社会であれば、皆で話し合って意思決定することが可能でも、規模が拡大すると現実的に共同意思決定は難しくなる。
 そうすると、意思決定に参加した人とそうでない人との間に温度差が生まれ、参加していない人は他人ごとになってしまう。
 それは、ビジョンの限界を示しているとも思います。会社にしてもまち(行政)にしても、「ビジョンがあるべき」と言われますが、本当に必要でしょうか。

豊田:私は空間の設計やデザイナーとして仕事を行ってきたので、「ビジョン」や「コンセプト」は、道標というか、多くの人が関わるときに必要な共通認識になるものだと思っています。困ったときに、立ち戻れる軸になるものという認識でいます。
 一方で、「ビジョン」ありきになると、ビジョン策定が目的になってしまったり、ビジョン決めに参加していない当事者以外の人びとは無関心になったりして、何のためにその言葉を策定したのだろうかということは起こります。

井上:あえて皆と同じ行動をしないブラブラ蟻(*4)がいる方がイノベーションは起きやすいという話がありますよね。皆がビジョンに従って同じ方向を向くというのは、本当によいことなのか。
 しかも、ポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ)が求められる今の社会では、ビジョンも品行方正なものばかりになっていきます。

豊田:道標ともなり得るが、ビジョンがあることでコミュニティが均質化してしまう恐れも出てくるということですね。このVUCA(変動性・不確実性・複雑性・曖昧性)の時代に多様性がなくなると本当に立ち行かなくなります。

*4 ブラブラ蟻:北海道大学大学院農学研究院 長谷川英祐准教授らがまとめた、集団維持には働かない蟻も必要だという研究結果。蟻や蜂等の社会性昆虫の集団には、ほとんど働かない個体が常に2〜3割存在する。しかし、働き蟻が何らかの理由で働けなくなると、この働かない個体が働き始めるという。つまり、働かない個体も必要だという内容。論文は、海外の科学誌に掲載されている。Lazy workers are necessary for long-term sustainability in insect societies – PubMed

●やる気の問題ではない

豊田: 自律協生に向かうには、何がポイントになるのでしょう。

井上:「自律や主体性は、どのようにしたら芽生えるのか」は、共同研究の大きなテーマの一つです。これまでにわかったことは、これは、やる気の問題ではなく、自律や主体性が起きやすい状況があるということです。その一つが「危機」に陥ったときです。
 自分たちの社会がなくなってしまうという危機感がある場所の方が自律や主体性は起こりやすい。
 地方だと、山村や離島など条件不利地域ほど危機感が共有されやすく、人も減っているので、外から来た人と組んで何かをしようという流れになりやすいです。

豊田:共同研究のフィールドにされている北海道森町や熊本県天草市はどちらも港町ですが、自律協生のヒントになることはありますか。

井上:港町は、常にさまざまな人が出入りしているため、表面的にはオープンに見えますが、実はかなり保守的です。外から来た人を歓迎はしてくれるけれど、根っこのところでは誰にでも門戸を開いているわけではない。港に来る有象無象の中には、悪い人・ものも紛れているかもしれないからです。だから、肩書等では人を判断せず、ある一定の距離間で人を観て、人物本位で判断するようなところが港町の人びとにはあります。
 そういう保守性があるのだけれども、何らかの危機的状況に陥ったときには、積極的に外の人を迎え入れて知恵を借りることで、変化をし、危機を乗り越えてきた歴史があります。保守的なところと外の力を受け入れるバランス感覚を持ち合わせ、世事に長けている人が多いのが、港町ではないかと感じています。

豊田:人物本位で他人と向き合うという点は、私たちが積極的に見習うべきだと感じます。また、ひとことに「保守」といっても、この言葉にはさまざまな意味がありそうですね。

井上:保守といっても、街道筋や宿場町、港町のような常に知らない人が出入りするような場所での保守性と、農村のような普段から知らない人の出入りがほとんど無いような地域での保守性は異なるような気がします。
 農村部の保守性は、その閉じられたコミュニティの中ではかなりオープンな集まりだと思いますが、知らないよそ者に対しては排斥的です。コミュニティの出自や気風みたいなものは、その土地によって異なるものなので、その歴史を遡るということは、地域と関わる上で重要なことだと感じています。

●コミュニティはずっと続かないといけないのか

豊田:続くことが前提でコミュニティをつくってしまうと、結局関わる人が減るような気がするのですが、このあたりはどのように考えられますか。

井上:その議論はあると思います。「まちづくり」を掲げて頑張っていても、どこかで疲弊しちゃうんですよね。自分の生活もありながらでは負荷が高すぎる。
 江戸時代では、このあたりのことを隠居制(*5)をうまく利用して執り行っていたように思います。旦那と若旦那がいて、旦那が隠居して家業を行うのであれば、若旦那がまちのことを行う。旦那が隠居してまちのことを行うのであれば、若旦那が家業を行う。役割を分けて、若いうちから出番をつくる。
 地方に通っていて問題だと感じることは、40代農家の人でもまだ家督を譲られておらず、家族がいても小遣い制みたいなことがたくさんあることです。高齢の親世代が、家督を譲ると自分に役割が無くなり、つまらないから家督を譲らない。そうすると、若い世代はいつまでたっても出番が来ない。継ぎ手がいないことも問題ですが、こちらも大問題です。

豊田:個々人が一つの役割に固執しなくて済むように、さまざまな場所で、些細であっても役割を複数見出すことができれば、地域のコミュニティにとってもプラスに働く可能性がありそうです。

井上:戦後の成長フェーズのままの仕組みや方法では立ち行かなくなっている現在、定常社会だった江戸時代には学ぶべきことが多いと感じます。

*5 隠居制:武士や大名が家督を子供に譲り、静かな生活を送りながら家族や家臣に助言を行う制度。隠居することで、家の継続性が保たれ、若い世代が早期に経験を積む機会が増えることが特徴とされる。また、隠居した人には安定した生活が保証されていた。

●協働する理由がない

豊田:「つながりやコミュニティは必要だ」といわれて久しいですが、最近の私たちは、むしろコミュニティを閉じていっているようにも感じます。会社や意図的につくられた組織だったコミュニティ以外の「つながりやコミュニティ」を本当に人びとは必要としているのでしょうか。

井上:会社や組織だったコミュニティは、強い「目的のある」集まりだから成立している部分がありますね。逆に言えば、人びとは「目的なく」共同することはない。また、共同体のあるところには、自然とルールのようなものができ、すべからく共同体倫理が働く結果、ルールに合わない人は排除されてしまう。だから、共同体倫理に閉じない仕組みが必要になります。
 例えば、生物や植物、天体等の自然界の原理みたいなものを取り入れれば、共同体は開かれます。コミュニティスペースをつくるだけではうまくいかないのは、人の世界で完結させてしまうからです。
 だから、コミュニティスペースをつくるよりも、大きな木を植え、皆でそれの世話をするようにしたらいい。大きな木があると大量に落ち葉が発生します。落ち葉はままならない。この「ままならないこと(*6)」を皆で経験する。面倒だと思いながらも自分たちで掃除することを通じて、人智ではどうにもままならない落ち葉という自然物が、コミュニティを外部に開いていくのです。
 しかし、ほとんどのものが管理の対象となる都市では、管理に収まらないものは逸脱の対象として排除されていきます。
 落ち葉が邪魔だと言って街路樹が切られてしまうように、ままならないものは都市から排除されてしまう。

豊田:管理できないものを排除するという構図はブラブラ蟻*4を排除することとよく似ていますね。そして、人も都市も多様性がなくなってしまう。

井上:多様性がなくなると、意外性もなくなるので、生きることの楽しさみたいなものをどうやって取り戻していけばよいのかという問いが出てきます。

*6 ままならないこと:思いのままにならないこと。思い通りにならないときの不自由さを表す言葉。

●若い世代は気づき始めている

豊田:コロナ禍を機に、若い世代が地方に目を向け、移住や多拠点居住を始めたりする例が増加しているように感じますが、ムサビではどうですか。これも楽しさ探しの一種だと感じます。

井上:都市の中での暮らしに「手ごたえのなさ」や「生きている実感のなさ」を感じ、悶々としている若い世代が、地方に面白さを見出し、移住するという流れがあります。ムサビでも、学校のプログラムで訪れた地域に移住してしまうという学生が、ここ3年間、毎年数名います。
 地方を目指す若者たちに共通するのが、同調圧力と無縁で、集うときは「集う」行きたくないときは「行かない」という選択ができることです。そして、断ってもペナルティが発生しないコミュニティをつくるという点でも共通しています。ひと昔前の世代だとそうはいかなかった。彼らのあの距離感はとてもニュートラルで、人付き合いの仕方が洗練されているような気がします。

豊田:フラットなコミュニティで、心理的安全性が高いからこそ主体性が生まれるのかもしれません。

井上:また、学校でも地域でも、その人に出番を与えることで、主体性が生まれてきます。コミュニティには、楽しく盛り上がるという部分だけでなく、普段できない話を「聞いてもらえる」や聞けない話が「聞ける」といった、ある種の実利が必要だとも感じます。それが僕らのようなよそ者が混ざることで可能になる。
 普段、セーフティゾーンのコミュニティに引きこもっている人も、僕らが関わることで、「引きこもっていることは楽しくないことかもしれない」と気づき始める。自律協生のベースになっていることは、「外と交わりながら楽しく生きよう」です。だから、「楽しい」はとても重要なポイントです。

豊田:「楽しい」は、世代に隔たりなく人びとをワクワクさせるキーワードだと感じます。本日は、貴重なお話をありがとうございました。

本取材は、2025年1月16日に行ったものであり、その時点での状況に基づき記述したものである。

〈まとめ〉

●孤独と緩いつながりの重要性

現在わが国では、約4割もの人びとが孤独を感じながら日々生活をしている。今後ますます一人暮らしや認知機能の衰えが見られる高齢者が増加すると見込まれていること、また比較的若い世代が社会とのつながりを重視しているという結果もあり、孤独や孤立が特定の世代だけの問題ではないことが窺える。
このような中で、親族や職場関係、友人ではない人との「緩いつながり」が今以上に重要な役割を果たすと考える。パーソナルスペースを侵さない適度な距離感が、孤独や孤立といった際に役立つのではないか。それは、挨拶を交わす程度のつながりかもしれないし、SNSやオンラインゲームで知り合った人かもしれない。

●現状のコミュニティスペースと課題

これまで建築・建設、不動産に関わる企業や行政等は、コミュニティスペースという場所(*7)(ハード)だけを用意することも少なくなかった。最近では、場所と共にソフト面の提供を行うケースも出てきているが、単発のイベントが継続的に行われるだけで、「参加者=お客さん」として扱われているものも少なくない。

●関わりたくなるコミュニティとサードプレイス

体性とは、言い換えると「関わりたい」という気持ちではないだろうか。緩くつながった個人のコミュニティは、個人が他のコミュニティとのハブ的な役割を果たし、外の情報や価値観を取り込み融合させる。そのためには、「ねばならない」ではなくDAO(*8)のように、皆で許容できる合意点を探りながらコミュニティを形成していくことも大切であり、今後の関わりたくなるコミュニティを考える上で重要だと考える。
コミュニティという言葉を使用すると、フォーマルな共有の場所をイメージしがちだが、『関わりたくなるコミュニティ』の場(*7)は、インフォーマルな個人と社会の間にある居心地のよいサードプレイスのようなものだと考えるに至った(図表5 C)。 それは、家でも会社や学校でもない、個人が自由に出入りでき、誰かの接待役や同調圧力を感じなくてもよい場である。つまり、集まることを強制されずに集まれる場である。
既に利用用途が固定された場所(図表5 B)であっても、ソフト面を再構築し直すことで関わりたくなるコミュニティの場へと変化させることは可能だろう。その際に、利用目的や場所の意味(高齢者用/子育て用)を前面に出すのではなく、用事(目的)がなくてもふらりと立ち寄れるということが大切である。
また、現在は強固なつながりに分類されているものでも、その内容を分解することで、今より緩いつながりの方へ近づけることもできるだろう(図表5 A)
このように関わりたくなるコミュニティやその場は、再開発のような華やかさはないが、これらが広がった先には、物質的な豊かさだけではない、真の豊かな生活や暮らしが待っているだろう。
今後、個人が複数の顔(役割)を持てる社会と、誰かに強要されてではない、関わりたくなるコミュニティやその場が拡がることを期待したい。

豊田可奈子

*7 場所と場:ここでは、「場所」と「場」の言葉の使い分けを行っている。場所は、主に建物等の空間内部を指しており、「場」と表記しているものは、空間内部だけでなく、公園や道端、裏路地等の何にも覆われていない外部空間も含んでいる。
*8 DAO(ダオ):DAO(Decentralized Autonomous Organization)とは、分散型自律組織のことであり、Web3には欠かせない新しい組織の形態である。中央管理者が存在せず、全ての参加者が組織運営に関与し、意思決定は参加者全員の投票によって行われる。全ての意思決定や取引の過程が、ブロックチェーン上で記録され、いつでも誰でも確認可能なため、透明性が高いとされている。また、どこからでも誰でも参加できるというのも特徴である。このDAOの概念は、イーサリアムやその他の暗号通貨の技術の発展と共に成長しているといわれている。

本稿は、特に日付のことわりがない限り、2025年2月15日現在の状況に基づき記述したものである。