特集

2023.04.05

【マンションのあるまち-4】続々とマンション建設が進む「岐阜」が注目のワケ

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まち探訪家・鳴海侑さんによる連載、4回目にご紹介いただくのは中部地方の地方都市「岐阜」。市街地に新しいマンションが目立つ理由を歴史から探ります。

取材・文・撮影:鳴海侑(まち探訪家)

まち探訪家・鳴海侑が紹介してきた「マンションのあるまち」。最終回となる本稿では、地方都市におけるマンションの可能性の一例として、岐阜県岐阜市の市街地を取り上げる。

 

岐阜県の県庁所在地でもある岐阜市は約40万人の地方都市。しかし、近年は約30キロメートル南にある名古屋の郊外都市としても存在感を増している。ある不動産系企業の「住みたいまち」ランキングでは中部エリアの上位に来ることも珍しくなく、市街地を歩けば新しいマンションが目立つ。なぜいま岐阜が注目のまちなのか。

 

 

名古屋駅からJR東海道本線の快速で20分ほど。岐阜市の玄関口、岐阜駅に到着する。駅の北側がメインの市街地で、大きなペデストリアンデッキと駅前広場が印象的だ。駅前広場には金色の織田信長像があり、その後ろには岐阜市街地を南北に貫く3つの通りの1つ、金華橋通り(平和通り)が伸びる。

▲岐阜市街地はバスの本数が多く、利便性が高い。織田信長のイラストが描かれた市内ループ線のバスも特徴的だ。

信長像の東側に隣接するバス乗り場には、派手な織田信長のイラストをあしらったバスも混じってやってくる。それが市中心部を循環するバスだ。この循環バスをはじめ、各地へのバスがひっきりなしに発着する。バスの利便性は他都市に比べてかなり高いと感じる。

▲岐阜駅前の広場と金華橋通りの様子。駅前広場には金色の織田信長像が目立つ。今後金華橋通りを挟んで両側で再開発が行われる。

信長像の西側を見ると、2棟の高層ビルが目立つ。南側の1棟は「岐阜シティ・タワー43」で、北側の1棟が「岐阜スカイウイング37」の東棟だ。
どちらも中高層フロアはマンションとして分譲されている。岐阜シティ・タワー43は15階から42階で約240戸、岐阜スカイウイング37の東棟は5階から37階で、約270戸が住戸として供給されている。

▲岐阜駅北側(長良口)から見た西側の様子。岐阜シティ・タワー43と岐阜スカイウイング37の2棟の高層建築が目立つ。

岐阜スカイウイング37は西側に岐阜市街地の西端を南北に貫く忠節(ちゅうせつ)橋通りが通り、北側と東側にはアパレル系の問屋街がある。岐阜スカイウイング37自体も問屋街だったところを再開発したビルだ。

 

 

岐阜駅前を走るメインストリートは金華橋通りと、その東側で岐阜駅前からペデストリアンデッキを介して接続する名鉄岐阜駅の前を通る長良橋通りの2本だ。西から忠節橋通り、金華橋通り、長良橋通りと3本の通りが岐阜市街地の南北交通を支える。

 

長良橋通りは特に沿道が栄えており、長いアーケードが北へ伸びる。そのアーケードの起点にあたる名鉄岐阜駅周辺には以前は「新岐阜百貨店」(1957年開業)、「パルコ」(1976年開業)、「ダイエー」(1976年開業)があったが、現在は撤退し、名鉄岐阜駅の一部やマンションおよび駐車場になっている。

▲岐阜駅北側(長良口)から見た長良橋通り・名鉄岐阜駅方面の様子。

再び金華橋通りに目を移す。金華橋通り沿いは新築のマンションが目立つ。岐阜駅から約700メートル北にいった金公園(こがねこうえん)周辺では特に目立ち、中には高層のものもあった。

 

金華橋通りから金公園を挟んで東側の細い通りにはおしゃれなお店が軒を連ねる。地方都市としては少し珍しい通りだ。岐阜駅とこのあと紹介する柳ヶ瀬地区を連絡する重要な場所として、一部ではまちづくり協議会を作ってまちなみ整備が行われた。

 

 

金公園の北、岐阜東西通りを挟んで岐阜市の中心商業地域といわれる柳ヶ瀬地区が広がる。アーケードが東西および南北に何本も伸びており、アーケードでイメージする「線」のまちというよりも「面」で商業エリアが広がっていることがうかがえる。中心となるのは「岐阜高島屋」(1977年開業)と向かいにある映画館「CINEX」だ。しかしながらアーケードの重厚さの割には活気が薄く、若い層はあまり歩いているのが見えず、主に高齢者の行き来が目立つ。典型的な活気がない地方都市の商店街という印象を受ける。

 

柳ヶ瀬地区のアーケード街を東側に抜けると再び長良橋通りに行き着く。このあたりまでがマンションの多い一帯だが、中心市街地は更に北東へ延びる。

▲名鉄岐阜駅前から見た長良橋通りの様子。

長良橋通りに沿って2.5キロメートルほどの所には、岐阜城を仰ぎ見る形で岐阜公園があり、すぐ北には長良川が流れる。この岐阜公園周辺が岐阜の城下町で、一軒家が多い。また、長良川沿いには古い町並みが残る川原町、国の文化財にもなっている鵜飼いの観覧船乗り場がある。このあたりは観光地で、鵜飼いシーズンになると多くの人でにぎわう。また、岐阜城のある金華山は市民の憩いの場で、山中はハイキングコースやランニングコースとしても親しまれている。

▲古い町並みが残る川原町の様子。

長良川にかかる長良橋を渡ると、再びマンションが目立つ住宅地になる。岐阜駅前から長良橋までは約4キロメートル。中心部も南北に長いが、郊外化も進んでいる。その象徴が市街地を取り囲むように走る環状線だ。環状線沿いには大型商業施設「マーサ21」をはじめ、多くのロードサイド型店舗が建ち並ぶ。このロードサイド店舗の興隆は中心市街の大型商業施設の撤退や商業エリア柳ヶ瀬地区の元気のなさと対照的だ。

 

ここまでざっと岐阜の中心市街を見てきた。駅前の大型の再開発ビルから金公園周辺のマンション開発、長良川近くにある自然豊かな観光地など、近距離でも変化に富んでいるのが岐阜の大きな特徴であり、魅力であると言えるだろう。

 

 

変化に富んだ岐阜のまちはいかにして生まれたのであろうか。その端緒は鎌倉時代に金華山(稲葉山)に稲葉山城が築かれたところから始まる。稲葉山城は各種豪族が入れ替わり治めていたが、1567年に織田信長の手に落ちた。信長は稲葉山城を「岐阜城」、稲葉山城下の井口を「岐阜」と改名。ここに「岐阜」の名前が興った。

▲岐阜公園の様子。山上には岐阜城の模擬天守が見える。

岐阜城下では楽市楽座が設けられ、大きく商業が栄えた。商業の反映は豊臣氏、徳川氏と天下人が替わっても衰えることはなく、岐阜の城下町は江戸時代に徳川御三家のひとつ、尾張藩の領地として治められた。この頃は長良川のすぐ南側が中心部であり、当時の柳ヶ瀬や岐阜駅前は城下町から外れた土地であり、まだ田畑であった。

 

この岐阜市街が南下していくきっかけは明治時代、鉄道が開通したことにあった。1887年、現在の位置より東寄りの場所に「加納停車場」が開業。その後駅の西への移転を経て、駅前から岐阜市街まで幅約15メートルの「八間通り」(現在の長良橋通りの一部)が開通した。すると八間通りに沿って市街地は南下を始める。

▲岐阜駅南側(加納口)の様子。こちらもマンションが増えていっている。

また、1888年に岐阜市となった岐阜のまちでは「市区改正」と呼ばれる都市改造事業に着手。現在の岐阜市街地における道路の骨格が作られていった。その中には岐阜市街での消費額工場を目的として現在の柳ヶ瀬の西側に建設された「金津遊郭」への道路も含まれていた。八間通りから「金津遊郭」への道路が柳ヶ瀬のメインストリートの原型で、明治時代から大正時代にかけて商店が集まり、徐々に発展していった。

 

 

市街地は南下したといえども、岐阜駅前は第二次世界大戦後までは市街地の外れにあたり、駅の北西側には工場がいくつもあった。変化のきっかけは第二次世界大戦後に中国大陸などから引き揚げてきた人々がマーケット「ハルピン街」を岐阜駅前に作ったことだ。「ハルピン街」は闇市のようなもので、主に北満洲からの引き揚げ者が多く住み、共同体的にバラック造りの簡易商店街を形成した。1948年頃には岐阜駅の再建を行うことから強制退去の動きが起き、今度は1950年頃から岐阜駅北西側にあり、空襲で被害を受けた工場跡に問屋街を形成していく。1970年代にかけて問屋街は大きく成長し、また日本全体の景気の伸長にあわせて柳ヶ瀬地区も大きく成長していった。

▲岐阜郊外部の大型商業施設のはしり、「マーサ21」。岐阜市街からバス「市内ループ線」でアクセスもできるため、車がなくても行きやすい。

この流れが大きく変わったのがバブル景気の崩壊だ。バブル景気前から後継者問題に悩まされていた柳ヶ瀬地区では店舗を減らしつつあったが、バブル景気以降は柳ヶ瀬の集客に貢献する大型商業施設のうち、岐阜近鉄百貨店)(1999年)、名鉄メルサ(2009年)は撤退した。また、名鉄岐阜駅周辺にも集まっていた大型商業施設もダイエー(2002年)、新岐阜百貨店(2005年)、新岐阜パルコ(2006年)と次々と撤退。対して郊外部にはマーサ21(1988年)、カラフルタウン岐阜(2000年)、モレラ岐阜(2006年)、イオンモール各務原(2007年)と次々と大型商業施設やロードサイド型店舗が建設されていった。

 

ロードサイド型店舗の伸長により影響を受けたのは大型商業施設だけではない。岐阜駅前の問屋街も生産から販売まで一貫して行うブランド(ユニクロなど)が登場することで、一気に売り上げを減らしていった。

 

 

こうした中心市街地の状況に対し、岐阜市では市街地再生を行うことになる。2007年には「岐阜シティ・タワー43」が竣工(着工は2003年)、同年には「岐阜市中心市街地活性化基本計画」を発表し、岐阜駅周辺と柳ヶ瀬地区に集中的にまちなか活性化、まちなか居住の推進、にぎわいの創出を行っていくこととした。岐阜駅前では2009年に北口の駅前広場が完成。続いて問屋街の南西部を再開発した岐阜スカイウイング37が2012年に竣工した。
柳ヶ瀬地区の商店街内部では再開発よりもリノベーションが進められ、商店街周辺ではマンション再開発が進む。また、今年、岐阜高島屋南側に「柳ヶ瀬グラッスル35」が完成し、これは5~35階に300戸以上の供給が行われる。今後柳ヶ瀬地区再生の起爆剤になるか注目だ。

▲金公園(こがねこうえん)周辺ではマンション建設が進む。左側の高層建築が柳ヶ瀬グラッスル35。

ところで、岐阜のようなまちなか居住の推進による市街地再生は全国の地方都市で進められている。しかし、岐阜ほどうまくいっている都市はなかなか見かけない。ではなぜ岐阜はうまくいっているのだろうか。

 

その要因としては、大都市名古屋市への時間的距離の短縮が挙げられるだろう。実距離としては30キロメートルと決して近くはなく、従来メインの交通機関であった名鉄も30分前後を要していた。それが1987年の国鉄分割民営化以降、JR東海がサービス向上の一貫で増発とスピードアップを行った。その結果、昼間でも快速系の速達列車が毎時間4本走り、岐阜~名古屋駅間を20分弱で結ぶようになった。

 

また、JR東海が行った名古屋駅再開発でジェイアール名古屋タカシマヤを含むセントラルタワーズが1999年に開業し、従来の中心市街地「栄」に対して急速に求心力を高めていった。
こうしたことは、岐阜中心市街地の商業施設撤退につながった一方で名古屋のベッドタウンとしての岐阜市街地の地位を高めていき、まちなか居住の推進という形での市街地再生に寄与している。

 

 

ここまで、岐阜市街地の様子と変遷について紹介してきた。実は今後も駅周辺を中心に大きな再開発プロジェクトが計画されている。それが「岐阜駅北中央東地区」と「岐阜駅北中央西地区」だ。

 

2地区の再開発が完了すると、岐阜駅前は金華橋通りを挟んで高さ130メートル級のビルが2棟建つ予定で、岐阜駅前の高層ビルがより「群」となっていくこととなる。また、この再開発によって下層階に生活に密着したスーパーや医療機関などの誘致が期待でき、ますます岐阜駅周辺の再開発は今後進んでいくのではないだろうか。

▲柳ヶ瀬地区のアーケード。昼間でも薄暗く、高齢者の往来が多い。現在はリノベーションでのまち再生を図っている。

柳ヶ瀬地区は2018年の岐阜市中心市街地活性化基本計画改定以降、今後古い店舗や建物のリノベーションを進めることでテコ入れを図り、新たな商業の担い手を集めるなどまちの若返りを図ろうとしている。

 

近年では大都市内の地価上昇もあり、こうした大都市近郊かつユニークな動きのある都市というのは魅力的に映るに違いない。また、岐阜は自然の近さも魅力的で、それは名古屋に比べるとアドバンテージがある。

 

今後も岐阜は名古屋近郊というちょうどいい時間距離に後押しされ、市街地は居住環境としての魅力を向上させていくことで、マンションのある暮らしは更に広がっていくのではないだろうか。今後が引き続き楽しみなまちであり、中部エリアの人はぜひ引き続き注目してほしい。

WRITER

鳴海 侑
神奈川県生まれ。現在までに全国にある 700 以上のまちを訪ね歩いた、「まち探訪家」。父親の実家が限界集落にあった経験などから、「この地域はいかにしていまの姿になったのか」という問いを抱き、まちを見て歩き、考える日々を送る。現在は会社員と二足のわらじでウェブメディアへの寄稿をメインに活動中。

X:@mistp0uffer