人々のライフスタイルと共に歩む集合住宅はどう変わってきたのか? 集住の過去・現在・未来を「URまちとくらしのミュージアム」で「住まい方」に詳しい編集者・速水健朗さんが体感する。
▲街や集合住宅に詳しい速水健朗さんが今回訪れたのは「URまちとくらしのミュージアム」。URがこれまで取り組んできた「まちづくり(都市再生・震災復興・ニュータウンなど)」と「くらし(団地)」の歴史、そしてこれからを情報発信していく「都市の暮らしの歴史を学び、未来を志向する情報発信施設」。
住宅の過去・現在・未来をアーカイブするミュージアム
団地好きなら分かってくれるだろう。団地は、ノスタルジーだけで語られがちである。だが、そうではない。団地は未来を映し出している。関東大震災後、そして太平洋戦争後の復興期、どちらも大量の住宅供給が必要となったタイミング。公共による住宅の大量供給。そのプロジェクトに携わった人々は、当然、速度と大量生産を優先して取り組んだはずなのだが、それだけではなかった。むしろ、それに関わる人々は、未来の住宅のあり方や、長いスパンでの都市の姿を大量生産の住宅、つまり団地に託してきた。
ヌーヴェル赤羽台の一角にある「URまちとくらしのミュージアム」は、公共住宅の歴史が展示されている。ミュージアムに人が求めるのは、体験要素である。単なる情報の展示に人は満足しない。公共住宅の歴史において、「体験」とは何か。あの"名作団地"の部屋に触れ、実際に踏みしめることができるのかということになるだろう。
▲ミュージアム前のオープンスペースには登録有形文化財に登録されている昭和30年代を中心に建設されたY字型の住棟「スターハウス」が。
日本の公共住宅の歴史の始まりは、同潤会アパート。戦前、関東大震災後の折に設立された同潤会は、耐火性の強い近代的な鉄筋コンクリート構造による集合住宅の供給をした財団法人である。その設立は、1924年で今から100年前のことであった。
もはや現物は一つも残っていない同潤会アパートだが、かつての現物の外観の記憶は残っている。同潤会代官山アパートが90年代半ばまで残っていた。当時の記憶を美化することなく記すが、木々が多くて鬱蒼とした空間だった。鬱蒼とし過ぎていて、日当たりは悪そうだなという印象が強い。建造物は、老朽化していた。当時、そこに実際に住むかと聞かれたら、嫌だと答えただろう。だが、「URまちとくらしのミュージアム」で復元展示されていた同潤会代官山アパートの部屋からは、まるで違う印象を受けた。
100年前に徹底して考えられた単身者専用の住居
同潤会代官山アパートは、世帯住戸と単身住戸からできている。「URまちとくらしのミュージアム」には、その両方の部屋が復元されている。独身棟は部屋ごとにベッドが備え付けられている。しかもベッド下の大きな収納は、もしかしたら丸々布団が収まりそうなサイズ。ひょっとしてベッドがソファーを兼ねていたのか。限られた空間内に住みやすさを実現する工夫が随所に見られる。当時は家具を選ぶにも、選択肢そのものがほとんどない時代。主に使われていた、家具は、長持、行李、和箪笥、鏡台。嫁入り道具として女性が婚礼時にそろえるもの。まだ、そんな家父長制的な風習が常識だった時代に家具備え付けの単身者用住宅は、モダンというよりもかなりラディカルに近い発想だったはずだ。その他、水洗トイレや洗面台、ダストシュートなど当時ではかなり新しい設備が導入されている。
▲建物が鉄筋で密閉性が高いため、畳は湿気に強いコルクの上に薄縁(うすべり)を敷いたもの。
同潤会は住宅の建設にとどまらず、集まって住むことの利便性を追求しさまざまな共用施設が設けられていた。単身棟は3階建て。4つの棟が連なっていて、各棟は渡り廊下で接続されていた。そして、食堂や浴場、娯楽施設などの共用施設が備わっていたという。「URまちとくらしのミュージアム」には、実際に使われていた食堂の一部分や椅子などが展示されている。集合住宅の中の共用食堂。それ自体が斬新である。プライベート空間である個室が並ぶ集合住宅にパブリックな機能を持つ空間(食堂と公衆浴場)が接続されていた。住宅にパブリック空間を持ち込む感覚は、シェアハウス時代の方がより理解されるかもしれない。ちなみに、展示されている食堂の一部は、厨房と食事用テーブルが並ぶ空間の間にあったカウンターで、そのデザインを見ただけでも、同潤会代官山アパートのモダンさは理解できる。
大正期は都市化の時代。食生活の改善を目的とした「共益食堂」(参照:食堂の歴史あれこれ 遠藤哲夫)が登場した。この食堂もこうした流れに沿っていたのだろう。「大衆食堂」の時代よりも少し前のこと。
高層階の生活。未知のテクノロジーに囲まれた暮らし
戦後の住宅供給不足を解決するため、1955年に日本住宅公団が誕生する。
初期の住宅公団が手がけたもっとも変わり種のプロジェクトが「晴海高層アパート」である。公団初のエレベーター付きの10階建て集合住宅だ。晴海は東京湾岸の埋め立て地の中でも比較的都心である。現代の東京湾岸はタワーマンションが立ち並ぶエリアだが、1950年代当時の彼の地はススキと雑草しか生えないただの広大な土地でしかなかった。正式名称は「晴海団地15号館」。大規模な晴海団地の中にそびえるランドマーク。周囲には建物もないから、この建物は、湾岸エリア全体のシンボルのようにも映っていたはずだ。
団地といって浮かぶ庶民の暮らしよりも、ひとクラス、ふたクラス上の階層のためにつくられたのが晴海高層アパート。「URまちとくらしのミュージアム」では、その晴海高層アパートの中の部屋が2パターンが復元展示されている。ここには、「医者や弁護士、教授、芝居のディレクター。有名な女優」といった職業の人々も住んだのだという(参照:『建築討論』「遺跡としての晴海団地(その3)」佐々木俊輔)。家賃の高さゆえに、ここに応募した人たちがそもそも富裕層だということもあるが、おそらくそれだけではない。東京湾岸という立地、10階という高層階での生活、どちらも当時は、未知のもの。普通の富裕層なら御屋敷町の広い土地のある場所に邸宅を建てる。湾岸の高層住宅に興味を持ったのは、金持ちかつ、新しいテクノロジーに満たされた未来的な生活に関心のある相当に好奇心が強い人々だったのだ。
▲台所には1950年頃から大量生産されるようになったステンレス製の流しが。
▲欄間はガラス、畳も長めの特注品。
晴海高層アパートの設計者は、ル・コルビュジエの下で建築を学んだ前川國男。ル・コルビュジエ設計のユニテ・ダビタシオンを意識していることは、設計当初にあったピロティ(最終的には住戸化)やスキップフロア方式(1、3、6、9階にしかエレベーターが止まらない)が採用されていることからも感じ取れる。また、3層×2スパンの計6住戸を一つのブロックで区切るメガストラクチャー構造は、のちに部屋を拡張したり、仕切り直しをして住み直すなど長期の視点で設計されていた。一方、サッシは木製である。ぱっと見、和洋折衷のデザインを狙ったのかと思わせる。床も畳とフローリングの折衷である。だが、サッシが木製なのは、海風に晒される湾岸の高層住宅で金属は錆びるため長持ちしないからだ。
ユニテ・ダビタシオンは、最初期のものがいまだに現役。それを思うと晴海高層アパートも同じくらい、100年を踏まえた寿命を想定してつくられていてもおかしくない。一方で、サッシの寿命は短い。素材によってサイクルは違う。住む人間はどうか。100年は家族でいえば、5代、6代先の未来。住む場所に求めるものも変わるだろう。地価の変化や経済状況も、それ以上に予測不能なもの。晴海高層アパートは、築後39年で取り壊されてしまった。本来の建築物としての寿命はもっと長かったはず。建築物はなくなったが、建物が持っていたポテンシャルや設計者の意図などは、ミュージアムの細部に残る。
集合住宅は、必ずしも終の棲家として設計されているわけではない。独身棟であれば、家族を得てのちに出て行くのが前提。世帯向けも、一軒家を買うまでの限定的な暮らしの場所だったり、より広い団地に越すこともあった。人は、団地で人生のひとときを過ごす。公共住宅は、完成形の住宅を用意するのではなく、人生のある時期を支える。そんな、フレキシブルな住宅だから、ユニークな提案や実験の場にもなっていた。「URまちとくらしのミュージアム」はそんな視点で見学することができるだろう。
「URまちとくらしのミュージアム」の立地もまた重要である。ミュージアムは、人の暮らし、集住のあり方そのものを体験する空間。調度の細部を近くで見て、畳の中に足を踏み入れることのできる場所。団地の暮らしは、少し宙に浮いた場所での暮らしではあるが、地べたの人の暮らしを感じるための場所。そんな展示の場所が、新しい団地棟への建て替えが進んでいる赤羽台団地の中にある。集住のあり方の過去が見える。そして、それは現在とつながっている。また、未来とも地続きなのだ。
▲ドアノブ、ドアポスト、窓枠など戦前から現在まで集合住宅で使われてきた住宅部品を展示したコーナーもある。
WRITER
フリーライター・編集者。都市論やメディア論をテーマに、取材・研究中。主な著書に『1973年に生まれて 団塊ジュニア世代の半世紀』(東京書籍)、『東京どこに住む』(朝日新書)、『東京β』(筑摩書房)など。ポッドキャスト配信中『速水健朗のこれはニュースではない』
おまけのQ&A
- Q.晴海高層アパートの共用廊下は幅2mで広かったのはなぜ?
- A.井戸端会議で使えるように、また子どもたちが共用廊下を使って遊べるように広く設計されていた。ただ、当時鉄製のローラースケートが流行っていたので、騒音問題にまで発展したともいわれている。